◎米軍の艦砲射撃から生き延びた人々を歌った島歌☆彡|沖縄放浪日記

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2015年6月23日火曜日

◎米軍の艦砲射撃から生き延びた人々を歌った島歌☆彡

どーもー♪

今日、6月22日は、北半球では一年で一番昼間が長く、夜が短い『夏至』みたいですよぉ~o(^-^)o
G+のフォロワーさんから教えて頂きましたm(_ _)m

そのせいなのか、今日の沖縄本島は、少しムシムシしてますね。。。

さてさて☆

以前、ドライブに出かけた際に、偶然、ある看板を発見しまして、今度、機会を改めて行ってみようと思ってた場所があったんですが、今回、そこに行くことが出来ましたo(^-^)o

沖縄県中頭郡読谷村楚辺にある
『艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑』
(かんぽうぬくぇーぬくさー)
手前右側が『読谷村下水道発祥の地』の石碑
左奥が『艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑』
こちらは、読谷村の県道6号線を残波岬向けに進み、米軍基地『トリイステーション』の入口がある『楚辺入口』も通過して、ハンバーガーやタコスを販売されてる『たまハウス』とゆーパーラーがある交差点を海岸向けに左折し、小さな案内板を頼りに進むと、その突き当たりにあります☆

クルマを脇に停め、さっそく見学開始♪

こちらは、ユウバンタ浜(バンタとは沖縄の方言で『岬』とゆー意味)とゆー場所にあり、この歌碑がある場所の両隣りには、砂浜があります♪
ユウバンタ浜
まず最初に目につくのは、『読谷村下水道発祥の地』の石碑☆

石碑の後ろには、《あらゆる生命の源である水を大切にし、一度使い終えた水に再び命を蘇らせ、水環境を守っていく仕組みとして、この地より下水道の整備を開始した》と書かれていました。
≪石碑後方の説明書きより≫
『読谷村下水道発祥の地』の石碑
このユウバンタ浜の隣には、『楚辺浄化センター』とゆー施設があり、この施設の記念碑になっているみたいです。

んで、この石碑を見終わった後、次に『艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑』を見学開始♪
『艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑』と歌碑
この島歌を作詞・作曲したのは、比嘉恒敏(ひがこうびん)という人物。

比嘉恒敏さんは、自身の父親と長男を疎開船『対馬丸』で亡くし、次男と奥さんを出稼ぎ先の大阪で大空襲に見舞われ亡くしたみたいです。。。

戦後、沖縄に帰ると、焼け野原となった故郷を見て、家族を失った悲しみをこの歌で表現したんだそぉです。
『艦砲ぬ喰ぇー残さー』歌碑
比嘉恒敏さんは、沖縄が本土復帰した翌年、宜野湾市大山の路上で、飲酒運転をしていたアメリカ兵の車両に激突されてしまい、奥さんと共に亡くなられたとの事。。。

この『艦砲ぬ喰ぇー残さー』とは、『艦砲の食い残し』とゆー意味の沖縄の方言で、『鉄の暴風』と例えられた、米軍艦船からの艦砲射撃を掻い潜り、生き延びた人々のことを指します。
この言葉は、比嘉恒敏さんの親戚のオバーが発した言葉みたいですよ。。。
このユウバンタ浜一帯も、沖縄線の際、米軍が上陸した地点の一つです。
この『艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑』と歌碑は、2013年の6月23日に、建立除幕式が行われ、式典には、比嘉恒敏さんの娘4人の民謡グループ『でいご娘』が、歌碑の前で熱唱されたみたいです。

建立する趣意は、《悲惨な沖縄戦の実相を伝える象徴として、この地から全世界へ戦争の悲惨さと平和の尊さを発信する為『艦砲ぬ喰ぇー残さー』歌碑を建立する》との事です。
【「艦砲ぬ喰ぇー残さー」歌碑の隣りにある説明板より引用】
歌碑がある場所から水平線を臨む☆
明日は6月23日『慰霊の日』ですね。

『沖縄全戦没者追悼式』や、各地で『慰霊祭』が行われ、式典や祭事の最中、ちょうど正午から1分間の黙祷が捧げられます。

追悼の意を祈るとともに、比嘉恒敏さんが「艦砲ぬ喰ぇー残さー」に込めた想いも一緒に、黙祷を捧げたいですね。。。

それでは、この辺で。。。でわでわ☆★☆

最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
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☆『艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑』☆

☆場所:〒904-0304
      沖縄県中頭郡読谷村楚辺

☆時間:自由見学

☆入場料無料

☆駐車場無し

☆トイレ無し