◎15世紀の琉球王国時代に、尚氏6代の王に仕えながら謀反を疑われて自害したと伝えられる按司の御墓☆|沖縄放浪日記

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2015年10月18日日曜日

◎15世紀の琉球王国時代に、尚氏6代の王に仕えながら謀反を疑われて自害したと伝えられる按司の御墓☆

ハイサぁ~イ☆

昨日(10月17日)は、『沖縄そばの日』でしたね☆

皆様は、『沖縄そば』食べましたでしょうか?

ワタクシは、夕食に『沖縄そば』を食べましたよ♪o(^-^)o

夕食前に、自宅近くのスーパーへ材料を買いに行って来たんですが、『沖縄そば』の麺や具材がたくさん並べられていて、購入していくお客さんもたくさんいらっしゃいました♪

おそらく、『沖縄そば』を扱ってる県内の食堂は、大賑わいだったんでしょうね(笑)

さてさて☆

この前、『台グスク』を見学した後、まだ時間があったので、その近くに中城グスクの按司の御墓があるとのことでしたので、そちらを見学しに行ってきました☆

沖縄県中頭郡中城村久場にある
『護佐丸公之御墓
『護佐丸公之御墓』入り口☆
こちらは、中城村の国道329号線県道146号線がぶつかる『中城公園入口』の三叉路から、県道146号線に入り、『中城城跡』向けに直進していくと、中城村と北中城村の境界を示す標識があり、その少し手前にある側道に入ります。

側道に入り、約100mくらい進んだところ左手に、『護佐丸公之御墓』と刻まれた石碑が建てられてますので、そこが御墓への入口です。
御墓まで続く小道☆
小道の途中から少し勾配がキツい階段が現れます。
細長い小道をずーっとずーっと登っていくと、15世紀・琉球王国時代に活躍した武将『護佐丸』が眠るとされる立派な御墓が現れます☆
護佐丸公之御墓
いろいろ諸説あるみたいですが、『護佐丸』はもともと恩納村山田にある『山田グスク』の按司でしたが、琉球王国・第一尚氏王統、第二代目の国王『尚巴志王(しょうはし)』の北山攻略の際に活躍し、その功績が認められ、後に国王の命により、『座喜味グスク』を築城し、その城主となります。

『座喜味グスク』には約18年ほど居城していたみたいですが、その間、戦をすることが一切なかったんだそうですが、中国や東南アジアなどとの海外交易を盛んに行い、第一尚氏王統時代の経済の安定に貢献していたとのことです。
御墓のすぐ傍に建てられていた『護佐丸之墓』の石碑
『護佐丸』が、『座喜味グスク』に居城していた頃、『勝連グスク』を根拠地とする茂知附按司が勢力を拡大してきたので、尚巴志王は、中城の地領を『護佐丸』に与えて、『中城グスク』の築城をめいじたんだそうです。

茂知附按司に仕えていた『阿麻和利』が、悪政を働く茂知附按司を滅ぼし、『勝連グスク』の按司となります。

ちょうどその頃、今度は王位継承権をめぐる内乱が起き、尚布里が失脚し、尚泰久が第6代国王になります。

『護佐丸』は、『阿麻和利』に対抗するため、自軍を増強していると、このことを『阿麻和利』が「護佐丸が謀反を企んでいる」と、王府に讒言します。

これを聞いた『尚泰久王』は、『阿麻和利』を総大将に任命し、護佐丸討伐を命じます。

『阿麻和利』に『中城グスク』を包囲された『護佐丸』は、グスクを取り囲む軍は『王府軍』と聞くと、一切反撃せずに、妻子とともに自害してしまったんだそうです。。。
『護佐丸公之御墓』から少し下りたところから見た景色☆
宿敵『護佐丸』を倒した『阿麻和利』は、後に首里を攻撃しますが、妻であった百度踏揚(ももとふみあがり)が、ひそかに王府に『阿麻和利』の変を伝えていたので、『阿麻和利』も王府軍によって滅ぼされてしまったんだそうです。。。

ちょっと簡単になってしまいましたが、これが『護佐丸・阿麻和利の乱』の大方の御話です。

中城村の公式HPによると、この『護佐丸公之御墓』は、現存する亀甲墓としては県内で最も古い時代のお墓だそうで、文化的にもかなり価値の高いお墓とのことです。

もし、『中城城跡』や『台グスク』を訪れる機会がございましたら、この『護佐丸公之御墓』も一緒に見学されてみてはいかがでしょうか。。。?

それでは、この辺で。。。でわでわ☆★☆

最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
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☆『護佐丸公之御墓』☆

☆場所:〒901-2401
      沖縄県中頭郡中城村久場

☆時間:自由見学

☆入場料:無料

☆駐車場:無し

☆トイレ:無し