◎1605年に中国から甘藷を持ち帰り、貧困で苦しむ人々を救ったと伝えられる人物の墓☆|沖縄放浪日記

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2015年12月8日火曜日

◎1605年に中国から甘藷を持ち帰り、貧困で苦しむ人々を救ったと伝えられる人物の墓☆

ハイサぁ~イ☆

今日(8日)の沖縄本島は、日中は少し暑さを感じるくらい、とーってもいい天気でしたね(^_-)-☆

ちょっと風が強いので、比較的なかなか過ごしやすかったです♪

いちおー明日(9日)も、降水確率が10%となっており、晴れるみたいなんですけど、午後からは『曇り』とのこと。。。

んで、木曜日・金曜日はまた、『雨・曇り』の予想と、少し崩れるみたいですね(^ω^;

さてさて☆

昨日は、午後から少し空き時間が出来たし、天気も次第に回復してきてたので、本島中部方面へちょっとお出かけしてきました☆

沖縄県中頭郡嘉手納町字兼久下原にある
『野國總管(のぐにそうかん)の墓』
『野國總管の墓』
こちらは、嘉手納町の国道58号線沿いにある在沖縄米軍嘉手納基地内の『嘉手納マリーナ』内にあります☆

『嘉手納マリーナ』は、『基地』とゆーよりも米軍関係者の保養施設的なところで、年中一般人の立ち入りが許可されており、いつでも出入りが可能な場所なんです♪

『野國總管の墓』は、このマリーナの一般人の立ち入りが許可されてる区域の南側にあります。
『産業界之恩人 野國総官之墓』と刻まれた墓碑
お墓の横には、『産業界之恩人 野國總管之墓』と刻まれた墓碑と説明版が設置されてました。

その説明版によると・・・
≪野國總管は、1605(慶長10)年に中国から甘藷を持ち帰り、野国村で栽培し、ついで野里、砂辺の近隣の村に分配した。儀間真常はそのことを聞いて、野國總管からかずらをもらい栽培法を習って各間切りに植えさせたので、約15年で沖縄中に広まった。

その後、多くの人々がその甘藷の普及によって、飢饉から救われるようになり、總管は、ウンムウフス(甘藷大主)と呼ばれて慕われてきた。

1700(元禄13)年に野国地頭だった章氏野国正恒は、自分の財産で石壇と石厨子を築造して野國總管の遺骨を収め、1751(宝歴元)年には、總管野国由来記が建てられた。その墓は戦災をまぬがれ現在に至っている。
嘉手納町教育委員会≫
・・・と、書かれていました。

『野國總管の墓』は、昭和31年2月22日に沖縄県の文化財に指定されています。
説明版
また、嘉手納町の公式HPによると、『野國總管』は、北谷間切の野国村生まれ育ちなんだそうですが、いつ生まれたのか、どのような暮らしをし、いつ亡くなったのかなどの詳細は、未だ不明とのこと。。。

さらに、なぜ中国に渡ることができ、甘藷(=いも)を持ち帰ることができたのかも定かではないんだとか。。。

今現在に伝えられる名前の『野國』から野国出身とゆーことが想像でき、『總管』とゆー役職名から進貢船に係りのある仕事をしていたと考えられるとのことで、確証ではないみたいです。。。

ですが、『野國總管』が、琉球に甘藷をもたらして人々を飢饉から救い、さらにそれを各地の先達の手によって日本全国に普及していき、今に至っているとのことですから、偉大な貢献者ですよね。
『野國總管の墓』と《甘藷発祥之地》と刻まれた『甘藷の恩人頌徳碑』
Wikipediaによると、『野國總管』の姓名については、総姓世系図等で分析された結果、いくらかは明らかになっているそうです。

≪係る系図の一世の項には「大宗藩初野國總管号松岩室号永屋」とあり、2005年現在、13代目まで「与那覇(ヨナハ)」として継承されている総管の位碑に「總管野國松岩名乗裕言名總世健」という記述があることからの推定で、本件の野国総管の姓名は、童名でもある沖縄名で「与那覇 松(ヨナハ マチュー)」、大和名で「与那覇 裕初(よなは ゆうしょ)」、中国名(唐名)で「總 世健」と呼ばれていたのではないかという説である。

野国総管の妻の名は、戒名が「永屋」であることからの推定で沖縄名は「永」であったと考えられる。
ウィキペディア『野國總管』《サツマイモ栽培を始めた野国総管》の欄より一部抜粋≫
・・・と書かれてました。
甘藷の恩人頌徳碑
『野國總管』によって、中国から甘藷がもたらされてから、2005年でちょうど400年になるとのことで、その年には、『野國總管』の偉業を奉祝する『野國總管甘藷伝来400年祭』が、嘉手納町民によって挙行されたとのこと☆

その際、甘藷発祥の地・嘉手納を全国に広く発信するとともに、『野國總管』を称え、甘藷を『野國いも』の愛称で呼ぶことを宣言し、記念碑を建立したんだそうですよo(^-^)o
野國總管の墓
『野國いも宣言』の記念碑は、国道58号線から『嘉手納マリーナ』に入る出入り口の小さな丘の上に建てられており、国道からも直接見ることができます☆

『甘藷発祥の地 野国いも宣言』の記念碑と『野国貝塚群』の説明版
記念碑の説明版には・・・
≪1605年、我が町の先達・野國總管によって中国福建省からもたらされた甘藷は、野國總管生誕の地・野国を発信基地として琉球の全ての村々へ、そして、薩摩を経て全国へと広まり、人々を飢えや飢饉から救い、全国民が等しくその恩恵に浴することになりました。
今日、甘藷は未来を希求する健康食品として注目を浴びております。甘藷伝来400年の節目を迎える2005年、野國總管の偉業を奉祝する「野國總管甘藷伝来400年祭」が全町民の手により挙行されました。この慶賀を機に、我が国における甘藷発祥の地・嘉手納を全国に広く発信するとともに、野國總管を称え、甘藷を「野国いも」の愛称で呼ぶことを高々と宣言し、ここに記念碑を建立します。
2005年10月1日 野國總管甘藷伝来400年祭実行委員会
         実行委員長 嘉手納町長 宮城篤実≫
・・・とありました☆
ちょっと画像が荒いですが、『野国貝塚群』の説明版にあった上空写真
この『野國總管の墓』や『甘藷いも宣言』の記念碑がある『嘉手納マリーナ』一帯は、貝塚群になっていて、一帯をA~Cの3つの地点に区分けして読んでいるとのこと。

現在、C地点は嘉手納マリーナのビーチとして利用されているため、痕跡はないんだそうです。

2度に渡る緊急発掘調査を行った結果、上層からは縄文時代前期の条痕文時が出土し、下層からは縄文時代早期の爪形文時が大量に出土したんだとか。。。

A地点では沖縄新石器の時期で開元通宝が出土し、C地点はB地点の南側、畑地一帯で畑地から後期系土器などが採集され、周辺からは青磁なども採集されたんだそうですよ。

この『嘉手納マリーナ』内には、『野國總管の墓』だけでなく、小さな拝所やいくつかのお墓もあります。
『野國總管の墓』がある同じ石灰岩の裏側にもお墓がありました。
小さな拝所
マリーナの湾内にある離れ岩にも階段があり、もしかするとその先にも拝所がありそうでしたね。
沖縄だけではなく、全国に広まった甘藷を中国から持ち帰り、人々を飢饉から救ってくれた『野國總管』。。。

嘉手納町に訪れた際には、ぜひ『野國總管の墓』にも足を運んでみてはいかがでしょうか。。。

少し長くなってしまいましたが、そろそろこの辺で。。。でわでわ☆★☆

最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
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☆『野國總管の墓』☆

☆場所:〒904-0205
      沖縄県中頭郡嘉手納町兼久下原485(嘉手納マリーナ内)

☆時間:自由見学

☆駐車場:あり