◎通信隊或いは鉄血勤皇隊として沖縄戦を戦った中学生徒達の慰霊碑。。。|沖縄放浪日記

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2016年2月5日金曜日

◎通信隊或いは鉄血勤皇隊として沖縄戦を戦った中学生徒達の慰霊碑。。。

ハイサイ☆

今日も沖縄本島は、予報通り、一日中愚図ついた天気となりましね。。。

んで、明日(土曜日)と明後日(日曜日)は、両日ともに降水確率が30%となっており、『曇り』になる見込みとのことヽ(^。^;

明後日は、『チビモトカップ』の開幕戦が開催される予定なので、ワタクシも観戦しに行く予定なんですが、コースの方はレースが出来る状態なのかとても心配です。。。

出来れば、明日から晴れてくれて、日曜日には気持ちよく開幕戦が開催出来る状態になってほしいものです( ̄▽ ̄;

さてさて☆

2016年1月23日~2月7日まで、本部町の八重岳では『第38回 本部八重岳桜まつり』が開催されていますが、この時期『寒緋桜』の桜並木がとても綺麗なこの『八重岳』にも、慰霊碑と戦跡があることをご存じでしょうか?

今回は、『寒緋桜』の並木道沿いにある慰霊碑をご紹介したいと思います。

沖縄県国頭郡本部町字並里にある
『三中学徒之碑』
三中学徒之碑


こちらは、本部町の県道219号線84号線が交差する『渡久地』交差点から、県道84号線名護市方面向けに進んでいくと、道路沿い左側にある『きしもと食堂 八重岳店』を過ぎて、すぐのところに『八重岳』と書かれた道路標識がありますので、そこを右折すると、ここが『八重岳』の入口となります☆

『八重岳』の案内板から入って、山頂目指して上がっていき、中腹辺りにある『八重岳櫻之森公園』の入口もそのまま通過して、公園入口から約1.4㎞くらい進んだトコの道路沿い左側に、その慰霊碑はあります。
今年の1月に本部町八重岳へ遊びに行った時の『寒緋桜』♪
道路側から見た『三中学徒之碑』
『三中学徒之碑』の両側には、向かって右側に碑文、左側に観音菩薩が建立されています。

碑文には・・・
≪太平洋戦争も末期の昭和二十年三月米軍の烈しい砲爆撃の中を、沖縄県立第三中学校生徒数百名は、軍名により通信隊要員または鉄血勤皇隊員としてあるいは繰り上げ現役入隊の形で、郷土防衛の戦烈に馳せ参じた。

四月一日、米軍の沖縄本島に上陸するや、陸上戦の火蓋は切って落とされ、我が三中の生徒はここ八重岳・真部山地区そして多野岳その他各地において圧倒的に優勢な米軍と果敢な戦闘を展開し数十名が、あたら十代の若き生命を無残にも散らしてしまった。

彼等の三十三回忌を迎えるに当たり、学業半ばにして斃れ、諸々の思いを残して逝った彼等の霊を慰めるとともに、平和の礎となって散華した彼等の死を永く後世に伝え、二度と再びかかる残酷悲惨な戦争を惹起することがないよう、我等はもとより、子々孫々に至るまでの永遠の戒として、ここにこの碑を建立する。
三中学徒之碑
諸霊よ 安らかに眠り給え
我等は常に諸霊と共に在らん

昭和五十二年四月十六日  沖縄県立第三中学校 生存学徒一同≫
・・・と記されていました。
碑文が刻まれた石碑
そして、向かって左側の観音菩薩のレリーフ下部には、戦死者名が刻まれています。
観音菩薩のレリーフと戦死者名が刻まれた石板
この『三中学徒之碑』について、いろいろ調べてみると、こちらに動員された人数は、碑文には数百名と記されていましたが、教師・生徒を合わせて約350名くらいみたいです。

また、そのうち戦死してしまった方の人数は、合計で88名にものぼるんだとか。。。

1945年の4月中旬には、戦況が悪化してきたので、名護市にある多野岳に撤退したそうなんですが、同月下旬には解散命令が出されたんだとか。。。

しかし、米軍の攻撃は熾烈を極め、逃げ伸びることができずに多くの方々が犠牲となってしまったんだそうです。。。

毎年、6月23日(沖縄では《慰霊の日》となっています)には、第33期生がつくる『三三会』が中心となり、慰霊祭が行われていたそうなんですが、2015年6月23日に行われた慰霊祭が最後となってしまったみたいです。。。
八重岳山頂付近から伊江島方面を望む。。。
もし、本部町の八重岳に訪れる機会があれば、この『三中学徒之碑』にも足を止めて、黙祷を捧げてみてはいかがでしょうか。。。

それでは、この辺で。。。でわでわ☆★☆

最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
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☆『三中学徒之碑』☆


☆場所:〒905-0222
      沖縄県国頭郡本部町並里(八重岳中腹辺り)

☆時間:自由見学

☆トイレ:無し

☆駐車場:有り