◎かつて《おろく》というシマを領していた高級役人が葬られている嘉数高台北側の御墓☆|沖縄放浪日記

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2016年4月10日日曜日

◎かつて《おろく》というシマを領していた高級役人が葬られている嘉数高台北側の御墓☆

ハイサぁ~イ☆

昨日(9日)は、旧暦の3月3日で沖縄の伝統行事『浜下り(ハマウリ)』でしたね☆

この日は、一年を通して潮の干満の差が最も大きくなり、干潮時には、海浜や干瀬が最も広がるので、普段は行くことができない干潟まで行くことができるんですよ♪

なので、この日は、海岸に行き、魚貝類や海草を採ったり、潮干狩りしたりする風習があるんですが、昨日は一日中大雨に見舞われたので、海岸には行けませんでしたね。。。(泣)

今年は、『浜下り』が出来なかったので、また来年ですね。。。( ̄▽ ̄;ハハッ。。。

さてさて☆

以前、宜野湾市の県道を走っていると、小川に架けられた小さな橋の近くに、気になる案内板を発見しました☆

んで、後日、改めて時間を作り、ちょこっと見学に行ってきましたヽ(^。^)☆

沖縄県宜野湾市嘉数にある
『小禄墓』
『小禄墓』
こちらは、まず宜野湾市の県道241号線と34号線が交差する『真栄原』の交差点から、県道241号線を浦添市向けに約330mほど進むと、『真栄原橋』という小さな橋があり、そのすぐ手前右側に『比屋良川公園』がありますので、そちらに入ります。

『小禄墓』には、徒歩でしか行けませんので、その公園の駐車場にクルマを駐車し、いったん公園を出て『真栄原橋』を渡り、右側川沿いにある小道に入ります。

『小禄墓』は、この小道の終点にあります☆
『真栄原橋』を渡り切ったところにある『小禄墓』へ続く小道の入口☆
『小禄墓』への道は、『嘉数高台』北側の路地からも行くことができますよ( ̄▽ ̄)b
そちらにも案内板と標柱が立てられているので、すぐ分かると思います。

また、少し余談なんですが、こちらの川は『比屋良川』という河川らしいんですが、別称『宇地泊川』とも呼ばれてるみたいですね。
琉球石灰岩の岩陰にあった無縁墳墓
『小録墓』に向かう途中の小道沿いには、無縁墳墓や壕などが点在しています。

入口からしばらく進むと、まず最初に石灰岩の少し奥まった場所があり、そこには無縁墳墓があります。
無縁墳墓のすぐ横側にあった獣道。。。ハブに遭遇しそうだったので、入るのは断念しました。。。
無縁墳墓の前には、宜野湾市の《比屋良川公園整備事業》の公告が立てられてました。

どうやらこちらの無縁墳墓は、個人所有の御墓のようです。

この無縁墳墓を通過して、さらに奥へと進んで行くと、次に現れるのは、周囲が黒ずんだ壕の入口が見えてきます。
小道沿いから見える、火炎放射によって黒く焦げた崖壁。壕は写真左側の奥にあります。
崖壁の奥に壕の入口。
火炎放射の跡があるということは、去った沖縄戦の際に、この一帯に旧日本軍が、普天間方面から向かってくるアメリカ軍を迎え撃つために造られた壕の一つだと考えられますね。。。

こちらの壕は、もしかすると、嘉数高台公園にある陣地壕と内部で繋がっているのかもしれませんね。(あくまで憶測ですが・・・)

この壕を通過して、さらに奥へと進んで行くと、『比屋良川』に架けられた小さな橋が見えてきます。

小道は、橋を渡ってさらに奥へと続いています。
県道241号線の入口から小道に入って最初に差し掛かる小さな橋
一つ目の橋を渡って、二つ目の橋に差し掛かる手前の右側断崖にも、無縁墳墓らしき御墓がありました。
二つ目の橋手前の右側断崖に階段があり、その先に無縁墳墓らしき御墓がありました。
この『比屋良川』の川沿いは、雑木林となっており、石灰岩の断崖がほとんど見えませんが、もしかすると、その奥にも、壕や無縁墳墓が多数点在しているのかもしれませんね。。。
二つ目の橋。橋には『比屋良川』の別称『宇地泊川』と記されてました。
こちらの無縁墳墓に続く階段のすぐ真向かいに、二つ目の橋があり、この橋を渡って進んで行くと、ようやく『小禄墓』に到着ですヽ(^。^;
二つ目の橋を渡り、振り返ったところ。石灰岩が張り出してました。
『小録墓』全景
『小禄墓』の手前にある木に、御墓内部にある石厨子・石彫香炉・石彫獅子の写真が貼られてました。

その貼り紙の下の注意書きには、『石彫香炉は損壊したため市立博物館に保存されています。(展示は行っていません)』と書かれてました。

なので、現在の『小禄墓』内部には、石厨子と石彫獅子の二つが保存されているみたいですね。
『小禄墓』
また、その貼り紙によると、『小録墓』は県の有形文化財に指定されており、内部にある石厨子も、県指定有形文化財となっており、博物館に保存されている石彫香炉と御墓に保存されている石彫獅子は、市指定文化財になっているとのことです。

こちらには、御墓の説明板が設置されていなかったので、宜野湾市の公式HP『古き琉球の文化をたずねて』というページを参照すると・・・
≪去るお起案わ戦では数多くの人々が亡くなった激戦の地「嘉数高台」の北側には、中城村境にある琉球大学構内より延々と四・五㎞も長く続き、国道五十八号線を越えて西海岸へと流れる比屋良川があります。

市内でも数少ない緑豊かなその川筋の両脇には、そそり立つ十メートル余の断崖を、多いところで三段も横穴状に掘り込んだ数百年にさかのぼる古い墓群が連なっています。
『小禄墓』の墓口
小禄墓は、そうした川べりの急な崖を掘り込んで、全面を切り石や自然の雑石でふさいで古い形の墓です。

墓の大きさは幅八・五メートル、高さ二・四メートルを測りますが、葬式のときに御橋(肩にかつぐ神輿)がそのまま入ると伝えるように、普段の墓口とは別に石積み部分に目地がついていて、幅一・七メートル、高さ二・四メートルの範囲がいつでも取り外せるように工夫されています。
宜野湾市公式HP『古き琉球の文化をたずねて』のページ最下部より引用≫
・・・と書かれていました。

また、日本観光振興協会の公式HPによると、『小禄墓』の墓内には「おろく大やくもい」という古琉球の高級役人が葬られているんだそうです。
『小禄墓』の反対側
『おろく』とは昔のシマ(村落)の名前で、『大やくもい』とは琉球王府時代の高級役人の肩書とのこと。

なので、こちらに葬られている人物は、かつて『おろく』という村落を領していた王府の高級役人であることから、この御墓のことを『小禄墓』と呼んでいるみたいですよ。

また、墓内に安置されている石厨子には、「弘治7年おろく大やくもい6月吉日」の銘文が記されているらしく、この銘文は現存する沖縄最古の平仮名資料といわれているんだとか。。。
断崖上部にも横穴が掘られてました。こうやってみると、かなり黒くなっているのが分かりますね。。。
行き止まりの柵がある場所の上部にも御墓らしき場所がありました。
この『小禄墓』がある場所から、下流域は行き止まりとなっており、これ以上進むことはできませんが、断崖は下流の方まで続いているみたいでした。

んで、その行き止まりの柵がある場所の上部にも、御墓らしき場所があり、また、その奥の藪の方にもそれらしきものが見えました。
行き止まりの奥側。。。藪が深くてはっきりとは見えませんでしたが・・・
『小禄墓』の隣にあった拝所らしき場所
・・・と、ここまで見学した後は、来た道を戻り、次の見学場所へと向かいました。

こちらは、沖縄の歴史をしる貴重な文化財でもあり、また、去る沖縄戦を知る上でも重要な戦跡ですね。

嘉数高台公園を訪れた際には、ぜひこちらにも足を運んで、『小禄墓』を見学してみてはいかがでしょうか?

それでは、そろそろこの辺で。。。でわでわ☆★☆
『小禄墓』のすぐ下にあった古い石垣・・・
最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
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☆『小録墓(おろくばか)』☆


☆場所:〒901-2226
      沖縄県宜野湾市嘉数1-1006

☆入場料:無料

☆トイレ:なし(小録墓に続く川沿いの道入口にある【比屋良川公園】内にあり)

☆駐車場:なし(【比屋良川公園】内に駐車場あり)