具志頭王子の墓だと言われる具志頭城跡の北側に位置する壕☆|沖縄放浪日記

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2017年6月8日木曜日

具志頭王子の墓だと言われる具志頭城跡の北側に位置する壕☆

ハイサぁ~イ⭐

前々回にご紹介した八重瀬町具志頭にある『具志頭城跡』を見学した後、城跡の北側を走る道路へと移動しました。

その道路沿いには、琉球王国第一王統・第二代『尚巴志』の三男『具志頭王子』の墓と言われ、沖縄戦の際には、旧日本軍の武部隊(第9師団)が自然洞穴を拡張して構築した陣地壕があるんです。

沖縄県島尻郡八重瀬町具志頭にある

『クラシンウジョウ壕』

クラシンウジョウ壕の写真
『具志頭城跡』北側にある道路。道路にせり出した右側の巨岩の裏に『クラシンウジョウ壕』があります。
こちらは、『具志頭城跡』の入口から『ぐしちゃん浜』へと伸びる道路を約190mほど進んでいくと、右側にあります。
クラシンウジョウ壕の写真
『クラシンウジョウ壕の入口
壕の入口に到着すると、横の壁面に注意書きが貼られています。

その注意書きには・・・≪この壕は、地権者と具志頭区の同意のもと自然体験学校が管理することとなりました。 壕の見学に関しては有料となりましたので、入壕のご希望の際は下記までご連絡ください。無断での入壕に関しましては固くお断りいたします。 ただし、拝所等の利用については除きます。≫・・・とありました。

ネットで調べてみると、どうやら2013年に『クラシンウジョウ壕』の入壕管理を、町と具志頭区が協定書を締結したんだそうです。

そして、その入壕管理を『NPO法人自然体験学校』に委託しているんだそうです。
クラシンウジョウ壕の写真
道路から階段を上がっていくと、巨岩の根元に拝所がありました。
壕の中に入る時は、『自然体験学校』に連絡して、料金を支払わないといけないようですね。

まぁ~、ワタクシは、こちらだけでなく、どちらの『壕(ガマ)』にも入らないと決めてますし、但書きには拝所等の利用については除きます≫とありましたので、今回は入壕せずに外側だけ見学させて頂くことにしました。

道路から階段を上がると、目の前の巨岩の根元に3基の拝所がありました。
クラシンウジョウ壕の写真
拝所に向かって左側の様子。
ネットでこの3基の拝所についてちょこっと調べてみたんですけど、何も出てきませんでした。。。

拝所のある場所からは、左右に道が分かれており、左側は未整備の状態、そして右側はコンクリート製の階段が設置されていました。

・・・なので、右側の階段から上がっていくことにしました。
クラシンウジョウ壕の写真
3基の拝所のある場所から右上へと続く階段
階段を上がっていくと、その途中の右側の岩壁にコンクリートブロックで塞がれた古墓らしき拝所がありました。

こちらも、先程の拝所同様に、詳細は不明です。。。
クラシンウジョウ壕の写真
階段途中にあった拝所
この『クラシンウジョウの壕』は、平和学習の場として利用されているため、"史跡"としての情報よりも、"戦跡"としての情報がクローズアップされているようですね。

こちらの拝所を後にし、さらに上へと向かいます。

階段の頂上付近に差し掛かると、その場所の岩壁にもコンクリートブロックで塞がれた古墓らしき拝所がありました。
クラシンウジョウ壕の写真
階段の頂上付近。写真右上付近に古墓らしき拝所が見えます。
クラシンウジョウ壕の写真
拝所
拝所の周囲の岩肌が少し黒ずんでいますが、米軍の攻撃を受けた跡なのでしょうか。。。

この拝所を通過すると、岩盤の裂け目に辿り着きます。
クラシンウジョウ壕の写真
階段の頂上付近から岩盤の裂け目。右側の切り立った岩壁の上が『具志頭城跡』です。
この岩盤の裂け目沿いに、壕の入口が数ヵ所点在しています。
クラシンウジョウ壕の写真
階段の頂上付近にあった拝所を通過してすぐ左側にあった場所。
こちらも"監視哨"として使用されていた場所だったのでしょうか・・・
冒頭でもお話しましたが、この『クラシンウジョウの壕』は、沖縄戦の際に、米軍の港川上陸に備えて、旧日本軍の武部隊が構築した陣地壕で、壕の内部は全長約150mもあり、数ヵ所に出入口が設けられているんだそうです。
クラシンウジョウ壕の写真
"監視哨"の跡らしき場所からほど近い場所にあった壕の入口。
《沖縄県高教組教育資料センター》が編集した『沖縄の戦跡ブック ガマ』によると、1944(昭和19)年12月から1月にかけて部隊移動があり、こちらに駐屯していた武部隊(第9師団)に代わって山部隊(第24師団)が移動してきたんだそうです。

そして、1945(昭和20)年3月23日から4月1日にかけて、米軍は陽動作戦を展開し、港川から上陸して来なかったらしく、この一帯に駐屯していた山部隊(第24師団)は、4月27日、首里戦線へ移動したとのことです。(沖縄高教組教育資料センター『沖縄の戦跡ブック ガマ』より引用)
クラシンウジョウ壕の写真
上の小さな入口の壕の前から奥を見たところ。
しかし、沖縄戦末期の6月になると、日本軍の南部撤退に伴い、この壕には独立混成15連隊が入り、更に高射砲を失った独立高射砲27大隊の一部が入り、再び陣地壕として使用されるようになったんだそうです。
※独立混成15連隊と高射砲を失った独立高射砲27大隊の一部部隊がこちらに入ったという記録があるそうですよ。

クラシンウジョウ壕の写真
先程の壕口よりも少し大きめの壕口。こちらには千羽鶴が捧げられていました。
1945(昭和20)年6月4日、港川に上陸し、本格的な攻撃の準備を始めた米軍に対し、旧日本軍部隊は6月9日の夜に壕を出て斬りこみ攻撃をすることになっていたんだそうです。

ところが、部隊の中には戦争継続に疑問を持っている兵隊もいたらしく、高射砲部隊のある通信班の班長は、"敵前逃亡"をすることを部下達に伝えていたそうです。

そして、攻撃する夜に、その部下達は出撃を装い隊列を離れて脱走に成功したんだそうですよ。。。(沖縄高教組教育資料センター『沖縄の戦跡ブック ガマ』より引用)
クラシンウジョウ壕の写真
千羽鶴が捧げられていた壕口の右斜め向かい側にある岩の隙間に造られた銃眼のある監視哨跡
岩盤の裂け目を奥へ進んでいくと、右側の岩壁の根元付近にいくつかの壕口が点在しています。

そのうちの1つの壕口横には千羽鶴が捧げられていましたね。。。

また、その千羽鶴が捧げられた壕口の右斜め向かい側にある岩の裂け目の奥に、長方形に開けられた銃眼が設けられた監視哨跡がありました。
クラシンウジョウ壕の写真
岩の下から見た銃眼。港川の方に向いています。
その場所から回り込んで、岩の下の方へ行くと、上の方に長方形に開いた銃眼が見えました。

そして、この場所から南側へ少し進むと、一際大きな壕の入口がありました。
クラシンウジョウ壕の写真
岩壁の斜面に繰り抜いて構築された壕の入口
冒頭で、第一尚氏・第二代王『尚巴志』の三男『具志頭王子』の墓と言われていると書きましたが、どうやらそのお墓は壕の内部にあるんだそうです。。。

『クラシンウジョウ』は、漢字にすると『暗御門』と書くそうで、同じ呼称の場所は、当ブログで2015年3月にご紹介したことのある『浦添ようどれ』にもあります。

また、那覇市首里にも『暗御門』と称する場所があるんだそうですよ。
クラシンウジョウ壕の写真
正面から見た大きな壕の入口
以前ご紹介した『浦添ようどれ』の記事でもご紹介しましたが、『クラシンウジョウ(暗御門)』とは、『洞窟内部に造られた墓』の事を意味し、かつては薄暗く地下へと続いているようなガマ(自然洞穴)は、この世とあの世が繋がる"トンネル"だと考えられていたんだそうです。

そして、その"トンネル"のことを『クラシンウジョウ(暗御門)』と呼んでいたみたいですよ。
クラシンウジョウ壕の写真
銃眼がある監視哨跡の前から入ってきた階段側を見たところ。
・・・と、ここまで見学させて頂いた後はクルマへと戻り、この前ご紹介した『具志頭ドライブインレストラン』へと向かいました(笑)

今回は、壕に入ることは出来なかったので、外側から『クラシンウジョウ壕』を見学させて頂きましたが、いずれは入壕料を支払って壕内にある『具志頭王子の墓』を見学しに行きたいと思います。
クラシンウジョウ壕の写真
『クラシンウジョウ壕』の階段から港川方面を見たところ。
それでは、そろそろこの辺で。。。でわでわ☆★☆

最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
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『クラシンウジョウ壕

☆場所:〒901-0512
      沖縄県島尻郡八重瀬町具志頭137

☆見 学:無断での入壕は禁止されており、有料となっています。
※詳細は管理団体『NPO法人 自然体験学校』の公式HPをご覧ください。

☆駐車場:無し