沖縄放浪日記: 史跡・遺跡・文化財

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2017年9月19日火曜日

浦添市経塚(字)の南東側の小高い丘にある龍柱に守られた洞窟の拝所☆

ハイサぁ~イ⭐

この前、浦添市内にある史跡について、いろいろ調べものをしていた際に、同市経塚(字)の南東側に位置する小高い丘の上に鍾乳石をご神体とした"拝所"があるとの情報を偶然見つけちゃったんですよ。

んで、先週中頃にちょこっと空き時間があったんで、さっそくその"拝所"へ見学しに行ってきました。

沖縄県浦添市経塚(字)にある

『真地大権現堂』

真地大権現堂の写真
二本の龍柱に守られた『真地大権現堂』。

2017年9月15日金曜日

浦添市前田の集落内に点在する前田権現や井戸跡などの拝所群☆

ハイサーイ⭐

この前、前々回にご紹介した前田集落発祥の屋敷跡などがある『ジリチン毛』を見学した後、同集落内に点在する井戸跡などの拝所群を見学しに向かいました。
※今回も、ちょっと長いですが、ご了承下さい。。。😅

沖縄県浦添市前田に点在する

『前田権現や井戸跡などの拝所群』

前田権現の写真
浦添市前田の閑静な住宅街の中にひっそりと佇む『前田権現』。

2017年9月12日火曜日

浦添市の前田集落北側に位置する前田発祥の屋敷跡地等がある拝所の森☆

ハイサぁ~イ⭐

先週の土曜日(9日)も、浦添市内の"史跡"巡りに行ってきました(笑)。

今回足を運んだのは、浦添市の前田地区で、同集落内にも"拝所"や"井泉・井戸跡(カー)"などの史跡がたくさん点在しているんですよ。

んで、まず最初に向かったのは前田集落発祥の屋敷跡地があるという森で、この森を含む一帯は『前田山川原』と称される場所になっているみたいです。

沖縄県浦添市前田にある

『ジリチン毛』☆

前田部落拝所の森の写真
前田集落拝所の森の中にある『前田発祥の屋敷跡地』の拝所。

2017年9月8日金曜日

浦添市の前田高地にある浦添城跡の西に位置する仲間集落の拝所群☆

ハイサぁ~イ⭐

今月(9月)の3日は、午後から浦添市仲間に点在する拝所や井戸跡などの史跡を見学しに行ってきました。

2年前に『浦添城跡』『浦添ようどれ』を訪れて以来、同市仲間を訪れるのは、超ぉ~久しぶりでしたねぇ。

しかも、意外と史跡の数が多かったんで、今回もちょっと長くなりますので、ご了承下さい。。。

沖縄県浦添市の仲間集落にある

『仲間の拝所群』

仲間の拝所群の写真
仲間自治会館の敷地の一角にある『仲間ンティラ』
『浦添城跡』の入口前の駐車場にクルマを停め、さっそく仲間集落内へと向かいました。

まず最初に足を運んだのは、集落のほぼ中央付近に位置する御嶽です。
クバサーヌ御嶽の写真
道路上から見た『クバサーヌ御嶽』。
こちらは、『クバサーヌ御嶽』と称される拝所で、木々に囲われているため遠目では、"御嶽"があるのか分かりません。
クバサーヌ御嶽の写真
出入口前から見た『クバサーヌ御嶽』
御嶽に近づいていくと、敷地の出入口に『史跡 仲間の拝所群(クバサーヌ御嶽)』と記された標柱と、木製の説明板が設置されていました。
クバサーヌ御嶽の写真
『史跡 仲間の拝所群(クバサーヌ御嶽)』と記された標柱と注意書き。
クバサーヌ御嶽の写真
標柱の左斜め向かいに設置されていた説明板。
まずは、その説明を読んでみると・・・

浦添市指定文化財 史跡 クバサーヌ御嶽(仲間の拝所群)≫
≪クバサーヌ御嶽は、仲間集落の発祥の地と伝えられています。

近世の仲間村の拝所の一つで、『琉球国由来記』(一七一三年)には「コバシタ嶽」と記されています。コバシタはクバの木の下という意味です。
クバサーヌ御嶽の写真
説明板の前から見た『クバサーヌ御嶽』の祠。
この一帯はウガングヮーヤマとも呼ばれ、戦前は大木がうっそうと茂っていました。

古老によると、クバサーヌ御嶽には石で積み封じた神墓があったそうです。また、裸世(はだかゆー)の時代には、クバの木の下で子供を出産したという言い伝えもあります。
クバサーヌ御嶽の写真
『クバサーヌ御嶽』。内部には数基の霊石が安置されていました。
旧暦正月の初拝み、五月・六月の稲二祭(ウマチー)、十二月の御願解きなどの年中行事には、他の拝所とともに村拝みが行われます。
平成十四年三月一日指定 浦添市教育委員会≫
・・・とありました。

説明を読み終え、奥にある御嶽の祠へ近づいてみると、内部には数基の霊石が安置されていましたね。

また、だいぶ老朽化が進んでいるため、天井が落ちないように簡易的な柱が設置されていました。

『クバサーヌ御嶽』を後にし、次に向かったのは、集落の南側にある樋川です。
仲間樋川の写真
仲間樋川(ナカマフィージャー)
こちらは『仲間樋川(ナカマフィージャー)』と呼ばれる樋川で、『クバサーヌ御嶽』と同じく浦添市の文化財に指定されています。
仲間樋川の写真
出入口から見た『仲間樋川』
こちらにも説明板が設置されていたので、そちらを引用させて頂きます。

浦添市指定文化財 仲間樋川(仲間の拝所群)≫
≪仲間樋川は市内でも最も大きな井泉のひとつで、仲間集落の村ガー(共同井戸)として大切にされてきました。「樋川」とは湧き出る水を樋で導き、水を容易に汲み取れるようにした井泉のことです。

仲間樋川の樋は大きな琉球石灰岩を削ってつくった大変立派なものです。1731年に首里王府が編纂した『琉球国旧記』には「中間泉(中間邑に在り樋川と俗に曰う)」の記述があり、その頃にはすでに樋が掛けられていたことがわかります。
仲間樋川の写真
『仲間樋川』の説明板。
昭和10年にはコンクリートを用いた近代的な改修が行なわれ、現在の姿となりました。

昼夜湧き出る水は、貯水・飲水用の「水タンク」に溜められ、次に洗濯などをする「平場」を経て、最後は農具や農作物の水洗い、馬の水浴びなどをする「ウマアミシ(溜め池)」に溜まるようになっていました。そして、溢れ出た水は苗代田(ナーシルダー)へ注ぐようになっていました。
仲間樋川の写真
昭和十年四月に改修された時に立てられた『仲間樋川』の竣工碑
大切な水を飲用水、洗濯用水、雑用水、灌漑用水の順に利用する工夫がみられます。

その後、上水道が普及する昭和40年代まで水を利用するたくさんの人々で賑わいました。

井泉の清浄な水は人の体を育て、健康を保つ特別な霊力(セチ)をもつと信じられ、人々の信仰対象にもなりました。その証として仲間樋川の樋の傍らには香炉が置かれ、地域の大切な拝所となっています。
仲間樋川の写真
正面から見た『仲間樋川』
現在も旧暦五月・六月のウマチーや十二月の御願解きなどの年中行事の際に、自治会で村拝みがおこなわれています。また、各家庭に水道が普及する以前は、子どもが生まれたときには産水をもらい、正月には若水を汲んで家の火の神や仏壇に供えました。

仲間樋川は人々の水と関わりを知る上で大切な文化財です。≫
・・・とありました。

また、『仲間樋川』は、平成21年に整備されたようで、その整備についての詳細が記されていました。
仲間樋川の写真
水が流れる側溝の上には、洗い物をする時に利用するための桶のようなものが設置されていました。
その詳細によると、以前は、貯水槽の上に水タンクが設置されていたようですが、景観を損ねているため、上部を切り取ったとのことです。
仲間樋川の写真
『仲間樋川』の向かい側にあった『ウマアミシ(溜め池)』
『仲間樋川』を見学した後、樋川の前から南西に伸びる道へと進みました。

約100mほど進んでいくと、右側の道路上に案内板が設置されているんですが、その案内板の横に細い小道があります。
仲間火ヌ神の写真
『仲間樋川』から南西に約100mほどの距離にある『仲間火ヌ神』の入口。
この小道を入って行くと、奥に『仲間火ヌ神』という拝所があります。
仲間火ヌ神の写真
仲間火ヌ神
"火ヌ神"の祠の前には2基の香炉が置かれており、内部には数基の霊石が納められていました。

小道を入ってきて、すぐ左側には『史跡 仲間の拝所群(仲間火ヌ神)』と記された標柱と説明板が立てられていたので、こちらも引用させて頂きます。

浦添市指定文化財 史跡 仲間火ヌ神(仲間の拝所群)≫
≪沖縄の火ヌ神には、各家庭で祀る火ヌ神のほかに、ムラの火ヌ神があります。この石の祠は、近世の仲間村の「地頭火ヌ神」といわれています。

地頭は琉球王国時代に間切りや村(今の字(あざ))を領地にした士族で、その就任や退任のときにおがんだのが地頭火ヌ神です。また、王府の公的祭祀として、浦添ノロ(神女)がとりおこなう稲二祭(ウマチー)などでも、他の拝所とともに地頭火ヌ神がおがまれたようです。
仲間火ヌ神の写真
『史跡 仲間の拝所群(仲間火ヌ神)』標柱と説明板、そして注意書き。
現在は、旧暦五月・六月の稲二祭や十二月の御願解きなどの年中行事に、仲間自治会の代表者数人で、ムラ拝みをおこなっています。

以前より敷地はせまくなりましたが、祠の石組みなどは戦前の姿をとどめています。
平成十四年三月一日指定 浦添市教育委員会≫
・・・とありました。

たしかに四方が民家やアパートなどに囲まれてて、メチャクチャ狭かったんですが、以前はもう少し広かったのかもしれませんね。。。

『仲間火ヌ神』を後にし、今度は『仲間自治会館』へと向かいました。
仲間自治会館の写真
ガジュマルの木が立つ『仲間自治会館』
仲間自治会館の写真
『仲間自治会館』
『仲間自治会館』の敷地の一角には、『仲間ンティラ』と呼ばれる"拝所"があります。
仲間ンティラの写真
『仲間ンティラ』
『仲間ンティラ』は、ムラの神が鎮座しているところと考えられているんだそうで、内部には洞穴があるとのことです。

『仲間ンティラ』の横に標柱と説明板が立てられているので、こちらもまた引用致します。

浦添市指定文化財 史跡 仲間ンティラ(仲間の拝所群)≫
≪ティラまたはテラと呼ばれる拝所は、奄美・沖縄地方に分布し、その多くは洞穴になっています。仏をまつる寺ではなくムラの神が鎮座しているところと考えられています。仲間ンティラも、横穴の洞穴になっています。

『琉球国由来記』(一七二三年)に記されている長堂之嶽が仲間ンティラにあたると考えられます。
仲間ンティラの写真
『仲間ンティラ』の横に立てられていた標柱と説明板。
旧暦正月の初拝み、五月・六月の稲二祭(ウマチー)、十二月の御願解きなどの年中行事には、他の拝所とともに村拝みを行なっています。

戦前は、台座に蓮の葉が刻まれた石灯籠が建ち、拝みを行う祠は赤瓦葺きで、壁は石積みだったようですが、去る沖縄戦で失われました。

現在は洞穴一帯を埋め立て、再建した祠の中から洞穴に入る形に変わっています。
平成十四年三月一日指定 浦添市教育委員会≫
・・・とありました。
仲間ンティラの写真
内部の様子を伺うと、香炉が置かれた台座の後方に洞口らしきものが見えました。
外から内部の様子を伺うと、香炉が置かれた台座があり、その両側には背の低い石灯籠らしきものが置かれ、香炉後方には格子が設置された洞穴の入口らしきものが見えました。

『仲間ンティラ』を後にし、自治会の敷地南側にある道路から西へ向かいます。

県道153号線に出る手前右側に『居酒屋ぷくぷくや』さんがあるんですが、その隣に細い小道があり、奥に真新しい赤瓦屋根の拝所が見えます。
根殿内の写真
県道153号線手前の細い小道の奥にある『根殿内』
こちらは、『根殿内(ニードゥンチ)』と呼ばれる拝所で、仲間村の草分けの家なんだそうです。
根殿内の写真
根殿内(ニードゥンチ)
こちらには説明板は設置されていなかったんですが、こちらもまた、年中行事の際に集落の人々によって拝まれているんだそうですよ。
入口に写っている三角形の白いものは、配置図と案内でした。

また、内部には『ノロ火之神』が祀られているようです。

『根殿内』を後にし、一旦153号線に出て北上していきます。
御待毛の写真
『仲間の歴史マップ』(手前)と浦添市内の文化財が記されたマップ(奥)。
北へ約170mほど歩いていくと、県道153号線から右斜めに伸びる小道があるんですが、その小道の入口に浦添市内に点在する文化財のマップと『仲間の歴史マップ』が設置された場所があります。

浦添市内に点在する文化財マップのすぐ隣に小さな説明板があるんですが、そこには『御待毛(ウマチモウ)』と記されていました。

その説明によると・・・
御待毛の写真
浦添市内の文化財が記されたマップと『御待毛』の説明板(左)。
御待毛の写真
『御待毛』の説明板。
≪御待毛(ウマチモウ)
≪琉球国時代には、仲間村を通る二つの大きな公道がありました。

一つは首里から牧港・読谷へと続く「中頭方西海道」、もう一つはこの道から枝分かれして当山を通り宜野湾の普天間宮へと至る道です。
御待毛の写真
『浦添城跡』内にある『伊波普猷の墓』の入口を示す昔の標柱も立てられていました。
この辺りはちょうど二つの道の分岐点にあたり、首里と地方を往来する国王や役人を仲間村の人々が出迎える場所であったことから、御待毛と呼ばれていました。

なお、「毛」は沖縄の方言で「広場」や「原っぱ」という意味です。≫
・・・とありました。
御待毛の写真
説明板の前の分岐点。左側が県道153号線、右側は当山へ続く小道です。この一帯が『御待毛』とのことです。
説明板の前には県道153号線と浦添市当山へ抜ける小道があるんですが、上記の説明によると、この県道153号線がかつての『中頭方西海道』、当山へ抜ける小道は『普天間参詣道』だったようですね。

この『御待毛』の説明板のある分岐点から、県道153号線を北向けに約40mほど進み、左側にある脇道へ入ります。
ノロガーの写真
民家に隣接する『ノロガー』の入口。
脇道を約90mほど入って行くと、左側に『ノロガー』と呼ばれる拝所があります。
『ノロガー』は、奥にあります。
≪ノロガー≫
≪沖縄では井戸や湧泉のことを「カー」と呼び、生活用水に利用されたほか、信仰対象となったものも多くありました。仲間村のノロガーもそのひとつで、現在も人々に拝まれています。
ノロガーの写真
ノロガー
「ノロ(ヌル)」とは祭祀を司った神女のことで、ノロが使用した井戸をノロガーと呼びました。仲間村のノロガーは、浦添ノロが村の祭祀のときに身を清めるのに使用されました。≫
・・・とありました。

奥には、手前に大きな岩と香炉が置かれ、井泉の周囲は小さな石積みで囲われていました。

また、定期的に清掃が行われているらしく、カーの周囲は綺麗な状態が保たれていましたね。

この『ノロガー』の前の道を西へ進むと、すぐに『浦添運動公園』の外周の遊歩道に出るんですが、その遊歩道を北へ進みます。
アトゥガーの写真
アトゥガー
遊歩道を北向けに約140mほど進んでいくと、右側に東屋らしき展望台があるんですが、その隣に『アトゥガー』と呼ばれる井泉があります。

≪アトゥガー≫
≪沖縄では井戸や湧泉を「カー」と呼びます。戦後、水道が普及すると利用されなくなりましたが、今でも各地でみることができます。

アトゥガーの水は、周辺に住む人々の飲み水や生活用水に利用されました。雨が降るとすぐに溢れるほど浅く、普段は柄杓で水をすくっていたそうです。
アトゥガーの写真
『アトゥガー』。人が落ちないようにするために鉄格子が設置されていました。
また、この辺りはアトゥモーと呼ばれ、船の往来もよく見える見晴らしの良い場所でした。近代になると、紡績工場で働くため、船で本土へ向かった地元の人々を、婦人たちが太鼓をたたき、歌いながら見送ったそうです。≫
・・・とありました。

現在も、豊富な水を湛えているらしく、水が溢れ出ていましたね。

こちらを後にし、一旦クルマへ戻ることにし、『浦添城跡』へ向かいました。
サーターヤー跡の写真
『浦添グスク・ようどれ館』近くにある『サーターヤー跡』。
クルマへ戻る途中、『浦添グスク・ようどれ館』近くに『サーターヤー跡』と記された説明板が設置されていました。
サーターヤー跡の写真
『サーターヤー跡』の説明板。
≪サーターヤー跡≫
≪サーターヤーとは製糖所のことをいいます。製糖技術が17世紀の琉球王国に伝わって以降、各地に設置されてるようになりました。

一般的なサーターヤーには、サトウキビの汁を搾るサーターグルマや汁を煮詰める釜小屋、薪小屋などがあり、その運営は主に、数軒の家で構成された「砂糖与(さとうぐみ)」が担っていました。

戦前の仲間集落では、この辺りを含めた8ヵ所のサーターヤーで黒糖を作っていました。≫
・・・とありました。

戦前の仲間集落内には、サーターヤーが8ヵ所もあったんですね~。

こちらを後にし、もう一ヵ所足を運ぶことにしました。
仲間あさと原の印部土手の写真
仲間あさと原の印部土手
『浦添グスク・ようどれ館』の駐車場から北へ伸びる遊歩道に入り、約160mほど進んでいくと、右側に階段があり、そこを上がると右側に説明板があります。

その説明板には『仲間あさと原の印部土手』と記されていました。
仲間あさと原の印部土手の写真
仲間あさと原の印部土手
その説明によると・・・

≪仲間あさと原の印部土手≫
≪印部土手は、検地(徴税のための土地測量)で使われた基準点で、中央のハル石と呼ばれる碑からの方角と距離で田や畑の一を記録しました。

ハル石には地名(小字(こあざ)名)と平仮名あるいは片仮名が一文字彫られています。
仲間あさと原の印部土手の写真
説明板に表記されていた絵図。
このハル石には、「あさと原」と「ス」が記されており、周りにはハル石が倒れないように根張石をめぐらせています。

琉球では1737年(元文2)から14年かけて行われた元文検地の時に数千もの印部土手が造られましたが、明治時代以降は使われずほとんどが失われました。≫
・・・とありました。
仲間あさと原の印部土手の写真
印部土手のハル石と根張石。
説明板の後方右側には、印部土手のハル石と根張石があります。
仲間あさと原の印部土手の写真
『仲間の印部土手』記された標柱。
説明には、「あさと原」と片仮名の「ス」が記されているとあったんですが、かなり老朽化しているためか、近づいて見ても何も文字が刻まれていないように見えましたね。。。
仲間あさと原と印部土手の写真
『印部土手のハル石』。文字が判読できないくらい劣化していました。
この『仲間あさと原の印部土手』を見学した後、今度こそクルマへと戻りました(笑)。

クルマを走らせ、帰る途中にちょこっと『浦添市立浦添中学校』の前に立ち寄りました。
龍福寺跡の写真
『浦添市立浦添中学校』。この場所はかつて『龍福寺』と呼ばれるお寺があったんだそうです。
県道から『浦添中学校』のグラウンドへ向かってちょこっと上がると、左側に『浦添中学校』の門があるんですが、この場所は『龍福寺跡』となっているんだそうで、『龍福寺』には、第一尚氏以前の歴代の国王が祀られていたとのことです。

現在『龍福寺』は、沖縄市へ移転しているんだそうですよ。
浦添間切番所跡の写真
『浦添間切番所跡』の説明板。
また、中学校前の歩行者用信号の地殻には、『浦添間切番所跡』の説明板が設置されています。

その説明によると・・・

≪浦添間切番所跡≫
≪浦添郵便局北側からこの辺りにかけては、かつて浦添間切の番所がありました。「間切」とは現在の市町村に相当する琉球王国時代の行政区画のことで、「番所」は今日の役所にあたります。

番所には地頭代(ジトゥディー)をはじめとする地方役人が置かれ、首里王府の命を受け、間切内の行政を担いました。また、国王の普天間宮参詣の際には休憩所に利用されました。
浦添間切番所跡の写真
説明板に表記されていた。昭和10年頃の浦添村役場の写真。
1881年(明治14)に訪れた上杉茂憲県令(今でいう県知事)の記録によると、番所は門を南西に構え、老松が枝を広げ、フクギ、ソテツが植え連ねられているとあり、植栽ゆき届いた美しい施設であったことがわかります。

番所は、1897年(明治30)に間切役場、1908年(明治14)には村役場と改められ、沖縄戦で損壊するまで浦添の行政の中心施設でした。
浦添間切番所跡の写真
説明板に表記されていた浦添番所の図。
なお、1882年(明治15)には浦添小学校が敷地内に開校し、浦添の学校発祥の地としても重要な場所です。≫
・・・とありました。

この一帯が、浦添市内の学校発祥の地だったなんて初めて知りましたね。。。

そして最後に『浦添小学校前』というバス停の後方にある花壇へと向かいました。
おもろの碑の写真
『浦添小学校前』バス停の後方、『仲間交番横』に建立されている『おもろの碑』
石碑の横には『おもろの碑』と題された[対訳]と[解説]が記されていたので、そちらを引用させて頂きます。

[対訳]
浦添の根国 永遠に積もる黄金 浦添にこそ有る 渡嘉敷の真国

[解説]
このおもろは、古い沖縄の神歌を集めた歌謡集『おもろさうし』の中に登場するもので、浦添の繁栄を讃えた一首です。「浦添はいつまでも、黄金がたまるほどの繁栄が続く。これほどの栄華は浦添にしか見られない」、と述べています。根国・真国は浦添の土地をほめた使い方で、渡嘉敷は浦添の古称としておもろでよく使われます。

古い時代、浦添は渡嘉敷と呼ばれていましたが、やがて琉球の政治的な中心となったために「うらおそい」(津々浦々を支配する土地)という名前に変わった、とする意見が有力です。
・・・とありました。
おもろの碑の写真
『おもろの碑』の『対訳』と『解説』が記された石碑。
この『おもろの碑』まで見学した後、そのままクルマへと戻り、帰宅の途に就きました。

いかがでしたでしょうか?

浦添市内には、まだまだたくさんの拝所や井泉などの史跡・文化財が点在しているので、これからもちょこちょことご紹介できればと思います。

今回は、超ぉ~長くなってしまいましたが、そろそろこの辺で。。。でわでわ☆★☆

最後まで読んで下さり、誠にありがとうございますm(_ _)m
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『仲間の拝所群

☆場所:〒901-2103
      沖縄県浦添市仲間

☆見 学:無料

☆駐車場:無し
※浦添大公園展望台、浦添グスク・ようどれ館、浦添城跡、浦添大公園南エントランス管理事務所などのいずれかの場所に駐車可能です。
但し、展望台、浦添グスク・ようどれ館、南エントランス管理事務所は、それぞれ時間制限があるので気を付けて下さい。

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