◎推定樹齢300年以上ともいわれる名護市の商店街入口に佇むガジュマルの巨木☆|沖縄放浪日記

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2016年2月18日木曜日

◎推定樹齢300年以上ともいわれる名護市の商店街入口に佇むガジュマルの巨木☆

ハイサぁ~イ☆

今日も沖縄本島は、朝から清々しい天気だったんですけど、午後になるにつれ、次第に雲が広がって夕方頃には曇りの天気となりましたヽ(^。^;

んで、明日(19日)と明後日(20日)の二日間は、降水確率が60~80%となっており、天気が崩れるみたいですね。。。

しかし、21日(日曜日)は、再び晴れる見込みのようです(^^♪

日曜日、予報通りに晴れてくれたら、またどこか散策にお出かけしよぉ~っと(^艸^)♪

さてさて☆

この前、名護市の『ひがし食堂』に向かう途中、同市の商店街入口に佇むガジュマルの木をちょこっと見学しに立ち寄りました☆

沖縄県名護市大東にある
『名護のひんぷんガジュマル』
名護市の商店街入口に堂々と佇む『名護のひんぷんガジュマル』
こちらは、名護市の国道58号線県道84号線がぶつかる『東江4丁目(北)』の交差点から、県道84号線に入り、『東江1丁目(東)』の交差点を左折して約130mくらい進むと、真正面にあります☆

この『名護のひんぷんガジュマル』は、平成9年9月2日に国の天然記念物に指定されており、樹齢は250年とも、300年以上ともいわれているんだそうですよヽ(^。^)ノ
『ガジュマル緑地公園』から見た『ひんぷんガジュマル』☆
隣接する『ガジュマル緑地公園』の端にある『名護のひんぷんガジュマル』の説明板を読んでみると・・・
≪国指定天然記念物 平成9年9月2日指定:「ひんぷん」とは屋敷の正門と母屋との間に設けられた屏風状の塀のことで、外からの目隠しや悪霊を防ぐものといわれます。乾隆15年(1750年)具志頭親方蔡温は、当時の運河開通論と王府の名護移遷論議を鎮圧するため、三府龍脈碑を建てました。

この石碑がひんぷんのように見えることから「ヒンプンシー」と名付けられ、その隣に生育するガジュマルもいつしか「ひんぷんがじまる」と呼ばれるようになりました。
胸の高さ辺りに縄が結ばれていました。
ガジュマル(Ficus microcarpa L.f.)はクワ科の常緑高木で、屋久島以南の亜熱帯から熱帯にかけて分布し、沖縄では屋敷林、緑陰樹として広く植栽されています。漢名は榕樹で、幹はよく分岐して枝葉は四方に繁茂し、垂下する気根は地上に降りて幹となり広く美しい樹冠をつくっていきます。

ひんぷんがじまるは、推定樹齢280年~300年、樹高19m、胸の高さでの幹周囲は10m、樹冠の広がりは長いところで直径30m、堂々とした容姿は市のシンボル、そして町のひんぷんの役割を担っています。ひんぷんがじまるの特異な景観は古くから衆目の的になり、写真におさまる周辺の様子で街の移り変わりを知ることもできます。名護の街の移り変わりを見てきたひんぷんがじまるは、まさに「市民の木」です。
平成12年(2000年)3月 名護市教育委員会≫
・・・と書かれていました。
三府龍脈碑☆
説明文に出てきた『三府龍脈碑』の碑文は、表面に漢文、裏面に和文で刻まれており、その内容は、≪首里城は琉球王国の創始者が神の眼を以て首都と定めた場所であり安易に遷都すべきではない。琉球王国は国頭府、中頭府、島尻府の三府全体で一体をなす龍のようなものであり、運河を掘ると龍脈が分断され、龍の勢いが削がれてしまう(Wikipedia【三府龍脈碑】碑文の内容より引用)≫とのことです。

現在『ひんぷんガジュマル』の根元に建てられている『三府龍脈碑』は、戦後に復元されたものなんだそうで、本物の碑は、沖縄戦で所在不明となってしまったんだとか。。。

しかし、その後幸地川の河床から破片の一部が発見されたそうで、この破片は現在『名護博物館』に大切に保管されているとのことです!(^^)!

また、『三府龍脈碑』は、1991年1月16日に沖縄県の有形文化財(歴史資料)に指定されているんだそうですよ。
名護商店街側からみた『ひんぷんガジュマル』☆
この『名護のひんぷんガジュマル』のすぐ隣りには、先程ちょこっとお話した『ガジュマル緑地公園』が整備されており、多目的広場をはじめ、この『ひんぷんガジュマル』の説明板、そして思想家・政治家として活躍された《徳田球一》と、画家の《宮城與徳》両氏の記念碑とその説明板などがありますo(^-^)o
右側手前から『徳田球一』の記念碑と説明板、中央が『宮城與徳』の石碑と説明板、
一番奥は『2000年九州・沖縄サミット記念写真』のパネルです。
写真手前側にある『徳田球一』の碑文によると・・・
≪徳田球一(1894年.9.12~1953.10.14)は、名護・沖縄が生んだ偉大な思想家・政治家です。戦前・戦後の苦難の時代を、高い志をもって社会運動に奔走しました。大衆を心から愛した情熱の人、日本を変革することに情熱を注いだ人物です。

徳田球一は、1894年この名護の十字路近くに生まれました。沖縄で中学校を卒業後、鹿児島の第七高等学校に進みましたが、すぐ沖縄にもどりました。23歳の時上京し、日本大学で学んで弁護士になり、社会主義運動に参加し、1922年の日本共産党結成に働きました。1928年、3.15事件で検挙され、敗戦までの18年間獄中にありました。

戦後、日本共産党書記長、衆議院議員となり、「徳球・とっきゅう」の愛称で国民的支持と人気を得ましたが、1950年マッカーサー指令により追放され、中国に亡命しました。その60年の生涯は、名護・沖縄・日本の近代史の一面を身をもって表現しています。

このような徳田球一の比類のない人物と業績を私たち郷里の者が評価し、永く讃えるため、この碑を建立しました。
1998年10月14日 徳田球一顕彰記念事業期成会≫
と書かれていました。
宮城與徳の記念碑と説明板
そして、その隣りにある『宮城與徳』の碑文には・・・
≪画家・宮城與徳は1903年2月、名護間切(現名護市)東江に生まれた。16才のとき、父の呼び寄せで渡米。サンディエゴ官立美術学校などで絵を学ぶ。

移民社会の中で画家としての道を歩みながら、戦争と革命の激動する世界のなかで波乱の人生を送った。

アメリカで人種差別、移民労働者の悲惨な境遇を目の当たりにし、「働く者の食える社会」への道を社会運動に求めた。日中問題や東アジアの課題に強い関心を持っていた與徳は日本に帰り、同志・尾崎秀美らとゾルゲ機関の活動に参加。

故郷沖縄の状況とアメリカ、東アジアのそれが相似の構図にみえ、沖縄の解放につながるとの思いから軍国主義一色の日本で、持病を抱えての情報・反戦活動を殉教者のごとく実践した。

絵の才能を期待され、愛する甥に「いつかは君たちの時代がくる」と話していた宮城與徳は逮捕され、1943年8月 40才で獄死。

ここ名護の地に生まれ、心から名護を愛し、日本と世界の歴史に深く関わった人物・宮城與徳を記憶するため、この碑を建立する。
2006年1月25日 宮城與徳生誕百年を記念する会≫
・・・とありました。
『ガジュマル緑地公園』入口
『ガジュマル緑地公園』
『ガジュマル緑地公園』内にも、大きなガジュマルの巨木が佇んでいます!(^^)!

その根元には拝所があり、1ヵ所は公園内のステージ裏、もう1ヵ所は公園入口側の道沿いの合計2ヵ所あります。
ステージ裏のガジュマルの根元にある拝所。
公園入口側から見た公園内のガジュマル(^^♪
公園入口側の道沿いにある拝所
公園入口側の道沿いにある拝所まで見学し終わったと同時に、雨がパラパラと降ってきちゃったので、クルマに戻り、そのまま『ひがし食堂』へと向かいました☆

今現在でも、名護市商店街の入口に堂々と佇んで、街の移り変わりをずーっと見守り続けてきた『ひんぷんガジュマル』。。。

これからも、末永く名護市の街並みを見守り続けてほしいものですねo(^-^)o

名護市を訪れる際は、この『ひんぷんガジュマル』にも、ちょこっと立ち寄ってみてはいかがでしょうか。。。?

それでは、この辺で。。。でわでわ☆★☆

最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
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『名護のひんぷんガジュマル』・『ガジュマル緑地公園』☆



☆場所:〒905-0016
      沖縄県名護市大東1丁目1

☆時間:自由見学

☆トイレ:無し

☆駐車場:無し