南城市大里大城の稲福集落に点在する拝所や御墓などの史跡群☆|沖縄放浪日記

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2017年3月14日火曜日

南城市大里大城の稲福集落に点在する拝所や御墓などの史跡群☆

ハイサぁ~イ⭐

今回は、前々回のブログ記事の続きです。

南城市大里大城にある『大城按司の墓』を見学した後、稲福集落まで戻り、集落内にガイドマップが設置されていたので、まずはそれを見て各史跡の場所を確認しました。

ガイドマップを見ると、予想に反して史跡の数が多かったんで、最初に訪れた日は、あまり時間も無かったんで数ヵ所だけ散策し、また日を改めて訪れ、残りの史跡を散策してきました。

沖縄県南城市大里大城の稲福集落内に点在する

『拝所や御墓などの史跡群』

テラグヮの写真
鬱蒼と生い茂る草木に囲まれ、ひっそりと佇む『テラグヮ』
ガイドマップが設置されている場所のすぐ近くにクルマを停めさせてもらい、すぐさま散策を開始。

ガイドマップに掲載されている各史跡には番号が振られていたんですが、その順番通りにではなく、ガイドマップに近い場所から見学していきました。

最初に訪れた1日めは、⑦ナカヌカー(ウチガー)、⑤慰霊之塔、⑨テラグヮ、●ミーガーの4ヵ所を見学しました。
稲福ガイドマップの写真
稲福集落内に設置されている『稲福ガイドマップ』
見学に向かう前に、まずはガイドマップにある『稲福の歴史と文化』・『稲福のみどころ』の欄を読んでみることに。

≪稲福の歴史と文化≫
≪稲福遺跡の発掘調査の成果により、形成時期は12~15世紀頃と推定されています。嘉靖年間(1522‐66年)には「任氏一世任高元稲福親雲上忠記」が当地を領する地頭職でした(『任姓屋我家家譜』)。

この地は水に恵まれていませんでしたが、19世紀に住民が灌漑事業を行って水田を開き、当時の琉球国王に褒賞されました。
ナカヌカーの入口
ガイドマップから東向けに約80mほど進んだところにある『ナカヌカー』の入口

地域に伝わる昔話では、稲福の周囲には島添大里グスクと大城グスクの二つのグスク勢力があって、あるとき両軍が上稲福(いーいなふく)あたりで激しく交戦したとされます。

最初は大城軍が優勢でしたが、突然強風が吹いて大将旗が倒れてしまいました。城内でこれを見ていた王の家族や臣下たちは、戦に敗れたと思い込み、火を放ち自害してしまいました。

大城軍は城から上がる火の手を見て狼狽し、勢いを取り戻した島添大里軍に敗れたということです。

現在の集落は西側下手に移動しています。≫
・・・とありました。
ナカヌカーの入口
『ナカヌカー(ウチガー)』
≪稲福のみどころ≫
■本島南部で最も高い場所にあった上稲福集落
旧集落は標高約160mの琉球石灰岩台地上に位置しており、三方を崖に囲まれた天然の要塞です。

近くの長堂の道からは沖縄本島南部及び慶良間諸島が一望でき、小谷橋からは佐敷から勝連半島まで中城湾一円を臨むことができます。

『おもろさうし』には稲福を詠んだ歌が三首あり、その風光明媚さが称えられています。≫
・・・とありました。

『稲福の歴史と文化』・『稲福のみどころ』を読み終えた後、まず最初に向かったのは、『ナカヌカー(ウチガー)』。

こちらは、ガイドマップがある場所から、東向けに約80mほど進んだところ左側にある脇道へと入り、約40mほど進むと左側にあります。
ナカヌカーの写真
『上稲福 集落の井泉(カー)』こと『ナカヌカー(ウチガー)』
ナカヌカーの写真
現在も豊富な水を湛えているらしく、汲み上げ用のポンプが設置されていました。
『ナカヌカー』の前にも説明板が設置されていたので、引用させて頂きます。
≪上稲福 集落の井泉(カー)
≪上稲福は丘陵の上部に位置しており、水利にあまり恵まれなかったところです。

このナカヌカーはじめ、ウチバルガー、クラシミガー、イリジョーガーは集落内にありますが、これらの水が枯れたときは、アガリヌヒージャーガーやイリヌヒージャーガーまで水汲みに行かねばなりませんでした。

このような条件でありながら、道光17(1837)年、大城筑登之(ちくどぅん)が湧水から水道を引いて水田460余坪を開発し、当時の尚育王に褒賞されたことが『球陽』に記されています。
南城市教育委員会 平成27年3月設置≫
・・・とありました。
ナカヌカーの写真
『ナカヌカー』の家の形をした屋根の上にあった四角い箱
また、稲福ガイドマップによると、≪村の産井(ウブガー)として使用された。旧集落の中心に所在した井泉。屋根が架けられ家の形をしているため、ウチガーとも呼ばれる。≫とありました。
ナカヌカーの写真
『ナカヌカー』のすぐ横にあった香炉。
『ナカヌカー』のすぐ横の藪の中には、1基の香炉が置かれており、こちらも拝所の1つとなっていることがわかります。

この『ナカヌカー』を見学した後、次に向かったのは、『慰霊之塔』。

ガイドマップによると、沖縄戦中、稲福の丘陵には弾薬庫があったという証言があったんだそうですよ。
稲福集落 慰霊之塔の写真
稲福集落の『慰霊之塔』の入口。奥は『テラグヮ』や『稲福寺』へ続く脇道の入口。
こちらも、ガイドマップのある場所から東向けに進み、約60mほどの距離にある右側の脇道へと入って、約70mほど進むと右側にあります。
稲福集落 慰霊之塔の写真
慰霊之塔の入口
『慰霊之塔』入口には『建立のことば』と題された碑文があったので引用させて頂きます。

≪建立のことば≫
≪第二次世界大戦中沖縄は最後の決戦場となり悲惨な最期を遂げられた幾多の御霊に対し限りなき思慕の情を寄せ供養するため稲福関係者によってこの塔を建立す。

御霊よ永久にこの塔の許に世界平和の守護神となり安らかにお眠り下さい。
昭和47年12月28日 稲福関係者≫
慰霊之塔の写真
碑文が記された石碑
稲福集落 慰霊之塔の写真
慰霊之塔
『慰霊之塔』の台座部分には、『戦没者芳名』が記されており、塔の手前には香炉が設置されていました。

『慰霊之塔』を見学した後、次に向かったのは、そのすぐ近くにある『テラグヮ』。

『テラグヮ』へは、『慰霊之塔』の入口のすぐ横にある脇道を入って、少し進むと、左側にある小道の奥にあります。
テラグヮの写真
『テラグヮ』の入口
ガイドマップによると、≪ビジュル(霊石)信仰の拝所であり、豊作・子宝を祈願する際に拝まれたとされる。≫とありました。
テラグヮの写真
テラグヮ
『テラグヮ』の内部には、いくつかの霊石と1基の香炉が置かれてました。

また、屋根はコンクリート製だったんですが、壁となる部分は琉球石灰岩の岩や小石を使用して造られていました。
テラグヮの写真
『テラグヮ』を横から見たところ。
そして、この日最後に向かったのは、『テラグヮ』の入口から南向けに少し進んだところ右側の窪地にある『ミーガー』。
ミーガーの写真
ミーガー
この『ミーガー』は、稲福ガイドマップの分布図には表記されていたんですが、説明はありませんでしたね。。。

しかし、先程ご紹介した『ナカヌカー(ウチガー)』同様に、こちらも水を湛えており、ガーの前には汲み上げポンプが設置されてました。
ミーガーの写真
ミーガー
また、ガーの周囲は石垣で囲うようにして作られており、比較的保存状態が良かったように思えました。

・・・と、この『ミーガー』まで見学した後、この日は、このまま撤収致しました。

そして後日、残りの史跡を見学するために再訪したんですが、今回はここまでにして、この続きはまた別の回にご紹介しますね。

それでは、今回はこの辺で。。。でわでわ☆★☆

最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
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☆『稲福集落内に点在する史跡』

☆場所:〒901-1400
      沖縄県南城市大里大城(上稲福集落)

☆見 学:無料

☆駐車場:無し